感想『Girls TALK #3』

http://t.co/SFSS9NOU
知り合いの漫画を読んだので、感想を残しておきます。
確かに「感情の相互交流不可能性」のみを物語の主題にしてしまえば、それ以上先の展開は書くことはできないでしょう。話はそこでおしまいです。
そもそも人間(特に男女間)がお互いのことを完全に理解出来ないというのは、源氏物語にしろジェーン・オースティンにしろ夏目漱石にしろ、古今東西の恋愛小説において散々言及されてきた事柄です。そのことだけを物語の主題として、殊更に取り上げる必然性が本当にあったのでしょうか。人間とは完全に分かり合えないものだという前提を踏まえた上で、別の「何か」を作品のモチーフに加えなければ、物語を続けていくことは難しいと思います。
作者自身は「感情の相互交流不可能性」というテーマから脱却しようとしていたようですが、どうも上手くいかなかったようです。*1この時期の作者さんは「ちゅっちゅまんが」の呪縛にそれだけ絡め取られていたと言えるでしょう。
次回作がどのような形になっているのかはわかりませんが、以前の作品の枠組みを超えた、新たなテーマの作品を作り出すことを期待しています。
追記2014/10/14
昔の文章を読み返すと言い足りない点があったのでもうちょっと書き加えておきます。
この一連の作品群を見ていると、主人公の涼子は「感情の相互交流不可能性」によって破綻したというよりも、単に他人との自己中心的で未熟な付き合い方によって破綻しただけにしか思えません。
人間と人間との間における「感情の相互交流不可能性」を語りたいなら、感情の相互交流の限界に行き当たるほどのコミュニケーション能力をもった人物を出すべきでしょう。
十分にお互いがお互いのことを察し、お互いのために行動できた上で、お互いのことが理解できないのならまだ「感情の相互交流不可能性」をテーマにした意味が理解できます。
これでは人間と人間のコミュニケーションの限界を描くという以前に、単に高慢で幼稚な少女が自分の未熟な精神性のために自滅する物語にしか見えません。
「感情の相互交流不可能性」をテーマにするのであれば、少なくともその不可能性の限界にまで到達した対人関係能力をもった人物*2を出すべきでしょう。
そういう点から言うと前作、前々作の時点ですでに表現としては失敗していたように見受けられてなりません。テーマは立派なのですが、実際に描かれている物語の構造や登場人物がそのレベルまで追い付いていないのではないでしょうか。
コミュニケーション能力が未熟な少女を中心人物にすえるのであれば、むしろその未熟さにテーマを絞るべきだったと思います。

*1:私見ですが、「涼子の自己中心的なコミュニケーションからの脱却」を描くことが、作品内の論理としては自然な流れだったように思えます。

*2:要するに精神的に大人の人物

現実世界で孤独なひとは、ネットで出会った「良い人」を安易に信用してはいけない。

http://togetter.com/li/202826
まぁ、他人を安易に信用してはいけないというのは、別にネットに限らず、リアルの世界でも同じことではあります。ただ、ネット世界にも精神的、社会的弱者(精神病者、ひきこもり、ニートなどなど)をかもにしている不届き者が跋扈しているので注意が必要です。
私はTwitterの自己紹介欄に「仏教」と入れているのですが、そのせいか自称スピリチュアル勉強家から有名な新宗教の勧誘までが、時たまリプライを飛ばしてきます。宗教方面に免疫のない人は本当に要注意だと思います。
また、宗教関係でなくても、要注意人物はもちろん存在します。私の知人にひきこもりや精神病者を見つけると、興味本位でその人たちと接触する人物がいます。彼は相手との距離が近くなった頃に、相手の趣味嗜好を攻撃して、精神的に大打撃を与える、といった行為を繰り返しているようです。
現実社会で孤独な状態に陥り、精神的に弱っていると、ネット上で自分に興味を持ってくれる人に依存しがちではあります。しかし、その相手がどんな人間で、どのような目的で近づいているのかを十分に見極める必要があるでしょう。
こうしたネット上の要注意人物から身を守るためにも、本当にネットリテラシー教育は必要だと思っています。顔が見えない相手に安易に気を許さないことを早い段階から知っておく必要があると思うのです。

ポスト"ゼロ年代の想像力"の時代に向けて

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

「ゼロ想」について色々言及したい点はあるが、一番気になったのは、彼が評価した日常享受物(いわゆる宮藤官九郎野ブタよしながふみ)が、本当に決断主義の動員ゲームを打ち破る物語であったのかということ。
P174

木皿泉がもう一人の修二にあたえた可能性は、キャラクターを変化させ、ゲームに勝利するのではなく、そのキャラクターを操る自分を変えることであり、無数に乱立するゲームをその下部で支えるものに目を向けることに他ならない。それは決して脱構築できない生殖関係、つまり家族であり究極的には自分の「死」である。
つまり、ドラマ版『野ブタ。』では、(無限であり、入れ替え可能な)決断主義的なゲームへのコミットを通して、そんなゲームでの勝利では購(あらがえ)ない(有限であり、入れ替え不可能な)関係性の共同体を獲得するという可能性が提示されているのだ。


宇野はこれこそが決断主義の克服への「非常に魅力的なモデル」であるという。
確かに「(有限であり、入れ替え不可能な)関係性の共同体」で手に入る価値観が、決断主義において手に入る、入れ替え可能なそれよりも、遥かに優れていることに異存はない
だがちょっと待って欲しい。確かにその決断主義者が野ブタのように同じ教室にいるクラスメイトなら、彼らにその価値観を説教することはできるだろう。しかし現実の社会における決断主義者にその言葉が届くのか?現実の社会における決断主義者ーーポピュリズムに訴える政治家、戦争を影で引き起こそうとする軍需産業の重役、日本各地の地方都市でファスト風土化を引き起こしている大手ショッピングセンターの社長でも何でもいいがーーたちにそもそもどこで、どのようにしてそのことを説教すればいいのか。もしかしたら、「共同体」の価値観を強調する物語を批評家たちが今後、強調することで、人々の意識を変えることはできるかもしれない。しかし、それが遂行されるのには果たして何十年、何百年かかるのか?その前に全体主義国家のようなものができあがってしまったら元も子もない。
宇野の提示するその他の反決断主義物語(クドカンよしながふみ)においても日常の内部の共同体の重要性が示される。だが、これらの物語も、その共同体の外部に存在する決断主義者の動員ゲームの前では為す術もないようにしか思えない。
宇野は日常享受物の登場人物が決断主義から逃れられないことを自覚し、他者に手を伸ばしていることを評価するかもしれない。しかし彼らも、強大な権力を伴った強力な決断主義者に対してはーー宇野の嫌悪するセカイ系の想像力と同様にーーまったくもって無力ではないのか。私には、決断主義への対抗軸としての日常享受物という構造が、成立しているには思えない。*1
また、宇野が主張するように、セカイ系とバトルロワイヤル系に対立構造があったのか?宇野の議論から自分なりに解釈すると、セカイ系--特にレイプファンタシー--とは「社会は虚構だとして私的な虚構世界に閉じこもり、閉鎖された母性の支配下の中、零落したマチズモを回復させるという価値観」である。一方バトルロワイヤル系は「社会は虚構だから、どんな価値観を社会で主張しても構わない、自分の正しさははパワーゲームで決定されるという価値観」とされるだろう。こうして見ると、両者は向かう対象が自己と社会という全くちがう領域へと分裂しており、お互いに棲み分けできている。どこにも対立が起こっているようには思えない。
宇野はバトルロワイヤル系がセカイ系を駆逐すると予測していたが、10年代の時点でどちらが生き残ったのかは一目瞭然としている。セカイ系的な作品は今でも(かつてほどではないが)生き残っており、バトルロワイヤル系の系譜はまったくかいま見ることができない。
私が思うにバトルロワイヤル系というのは、ポストモダンにおける新たな時代の価値観というよりは、新自由主義的な風潮と景気成長の高揚感が生んだ時代の徒花というだけだったのではないかと思う。だから、景気が減速し、社会主義的な民主党へ政権が交代した現状では、圧倒的に支持をうしなっていったのではないだろうか。
ただ宇野が主張したホモソーシャルな日常の共同体を重視する作品は、00年代後半から現在に至る間に、オタク業界においては主流を占めるまでになってきた。この点では宇野の未来への洞察眼は非常に優れていたと言わざるをえない。もっとも、セカイ系(レイプファンタジー系)の作品も生き残っており、この両者が手をとりあって繁栄する構図は宇野が一番見たくなかったものであったとは思う。
ついでに宇野によるキャラクター批判についても言及してみる。宇野は、東浩紀の主張する「物語に依存しない、自律したキャラクターの存在」を否定する。宇野曰く「どんなに自律しているように見えるキャラクターも、結局それを支える小さな物語に依存しているのではないのか」というのだ。しかし、ちょっと待って欲しい。現実にニコニコ動画で行われている現象をみてみよう。そこで流行しているエルシャダイ初音ミクアイマス、東方においては、もはや物語というバックボーン自体が存在していないか、存在してもその影響は弱いものである。(特に初音ミクについてはそうである。)そこにあるのは断片的なシミュラークルの連鎖反応だけしかないように見える。この現象は明らかに宇野の言っていることと食い違っているのではないだろうか。
こういう社会的文脈の忘却(セカイ系)の流行を、社会的文脈の復興(バトルロワイヤル系)を掲げる宇野が認めたがらないのは、ある意味当然といえば当然である。だが、そういう立場を先鋭化させた先に待っているのは前に紹介した「差異化のパラノイア」ではないのかと思えてしまう。多少、気がかりである。
これまで散々宇野の言説を私は批判的に取り上げてきた。しかし、私は宇野の基本的な主張にはそれほど反発はない。むしろ、彼の言うところの「関係性の共同体」や、「複数の物語へ接続可能な開かれたコミュニケーション」そして「死」によって限界づけられた我々の生の在り方への自覚、これらに対して私は宇野同様に重要なものとして受け取っている。また、そしてそのことを自覚しようとしないセカイ系や、バトルロワイヤル系への批判の意識も共有している。
P174

木皿泉がもう一人の修二にあたえた可能性は、キャラクターを変化させ、ゲームに勝利するのではなく、そのキャラクターを操る自分を変えることであり、無数に乱立するゲームをその下部で支えるものに目を向けることに他ならない。それは決して脱構築できない生殖関係、つまり家族であり究極的には自分の「死」である。
つまり、ドラマ版『野ブタ。』では、(無限であり、入れ替え可能な)決断主義的なゲームへのコミットを通して、そんなゲームでの勝利では購(あらがえ)ない(有限であり、入れ替え不可能な)関係性の共同体を獲得するという可能性が提示されているのだ。

P334

そしてそんな世の中の中で人々が陥りがちな決断主義=誤配のない小さな物語の暴力に依存しない方法を、ゼロ年代の想像力は模索してきたのだ。「終わり」を見つめながら一瞬のつながりの中に超越性を見出し、複数の物語を移動する--次の時代を担う想像力は、多分ここから始まっていくのだろう。

P338

家族(与えられるもの)から擬似家族(自分で選択するもの)へ、一つの物語=共同体への依存から、複数の物語に接続可能な開かれたコミュニケーションへ、終りなき(ゆえに絶望的な)日常から、終わりを見つめた(ゆえに可能性にあふれた)日常へ--現代を生きる私たちにとって超越性とは世界や時代から与えられるべきものではない。個人が日常の中から、自分の力で掴み取るべきものなのだ。そしておそらく、この端的な事実は時代が移ろっても変わることはないだろう。

今後は宇野の議論の問題点や限界をきちんと洗い出して、生産的な部分を抽出する作業が求められているのではないだろうか。我々はその上で、現在においても有効である彼の問題意識や価値観を継承していかなければならない。それが”ポスト宇野常寛”時代を生きる我々の義務であろう。
最期に今後の議論についてのアイディアを述べておきたい。宇野はセカイ系--母性支配によるナルシズムの物語--を他人とのコミュニケーションを拒絶し、現実の死に立ち向かえないものとして退ける。しかし、母性の支配というものは完全に否定しきれるのだろうか。
宇野のいう「終わりある。(故に可能性に満ちた)日常」というのも「終わりある日常」の一側面だけから見れば、正しい主張だろう。しかし、同時に「終わりある。(故に絶望に満ちた)日常」ということも言えてしまうのではないだろうか。宇野の言う「生殖関係」「擬似家族」「開かれたコミュニケーション」「終わりある(ゆえに可能性にあふれた)日常」は、どれも「死」の圧倒的な暴力性を前にしては、いとも簡単に「脱構築」されてしまう。*2我々は皆、か弱い存在である。圧倒的な暴力性を伴った「死」というものを前にして、それに超然と立ち向かえる人間は殆ど存在しない。むしろ、死を前にして恐れおののき、逃避しようとする人間のほうが大多数であろう。
そうだとすれば、セカイ系のように死の恐怖を忘れされてくれる物語は、今後何度でも反復してくるのではないだろうか。そして死の恐怖の超克に対して有効な答えを出さなければ--どれほど宇野が現実世界におけるコミュニケーションの必要性を主張したとしても--母性の支配は今後も姿、形を変えて現れ続けるだろう。*3
また、死の恐怖からの逃避のため、とまではいかなくても、「複数の物語に接続可能な開かれたコミュニケーション」からこぼれて落ちてしまった人が、セカイ系に走ることも十分にありうる。*4彼らの中にはアスベルガー症候群のように、生来的な問題でコミュニケーション不全に陥ってしまっている人も数多くいるであろう。そういう人々にまで宇野が主張するように開かれたコミュニケーション社会への参加を強制することは難しいのではないだろうか。
私は
1「終わりある。ゆえに可能性に溢れた日常」というテーゼが有限な時間を生きる自己の老い≒死の問題を解決出来ているのか。
2宇野のいうところの「開かれたコミュニケーションに基づく共同体」は、それに参加できないマイノリティーを排除しているのではないか。
という2点に関して、宇野に対して疑問を呈したい。
宇野が言うように、個人にとって確固たる信ずべきものが「発泡スチロールのシヴァ神」しか存在しない現代社会だからこそ、人間にとって本質的な問題が浮かび上がってくる。私の言うところの「終わりある。(ゆえに絶望的な日常)」というテーゼもそのような問題の一つなのだと思う。ゼロ年代は好景気の影響もあってか、あまりにも実存的な問題が忘れされすぎた。景気の先行きが見えず、社会不安がますますひろがるこの10年代は、あの90年代のように、内面的な問題が浮かび上がってくると私は予想する。

*1:決断主義への対抗軸はむしろ、ワンピース、グレンラガンFateのように悪の暴力に対してこちらも暴力で対向する、王道のドラマトゥルギーではないだろうか。http://d.hatena.ne.jp/izumino/20080923/p1

*2:宇野は「そういうネガティブな人間は勝手にしてください」と言うことは予測される。しかし、そういう実存的な問題を抱えた人々を社会が放置した結果、第二の「オウム真理教」が現れてこないとも限らない。この点についての宇野の考えは多少、気になるところではある。

*3:そのように死から逃避しようと母性の支配を要求してしまう人間心理を描いた重要なサブカルチャー作品こそが、「少女革命ウテナ」だと私は思っている。宇野はウテナを90年代的な心理主義作品として捉えているが、それに留まるものでは無いと思う。むしろ私はゼロ年代やその先の時代まで届く射程を持った作品だと認識している。自分はウテナ以外にも、90年代の作品の「機動戦艦ナデシコ」、「serial experiments lain」もゼロ年代を考える上で重要な作品だと思っている。この辺りを上手く扱えていないことが、年代別に作品を区切ってしまった”宇野史観”の限界なのかもしれない。その内時間があれば、この作品についても論じていきたい。

*4:むしろそちらの人の方が数としては多いだろう。

一足先に宇野常寛の「母性のディストピア」を読んでみる

新潮 2008年 11月号 [雑誌]

新潮 2008年 11月号 [雑誌]

宇野常寛の作品を「ゼロ想」以外読んでいなかったので、その後の氏の評論を一通り読んでみた。一通り要約してみると

敗戦、アメリカの支配を受けることによって、日本人はそれまでの前近代的な母性を通じた<成熟>への回路を失った。そこで、戦後ではアメリカという存在と(肯定的であれ、否定的であれ)対峙することによって、成熟するという新しい成熟への道が浮かび上がった。しかし、冷戦構造の崩壊によって、アメリカという存在の力が弱くなり、日本人は再び成熟への回路を見失うことになった。そのような状況の下で、前近代的な母性に身をゆだね、他者を排除し、成熟を拒否する物語がサブカルチャーを中心に再び現れることになった。これでは、有限な存在である人間にとって不可避である「成熟=老い」の問題に立ち向かうことができない。だから、母性の支配から脱却して、他者と向かい合う、新たな成熟を指し示す物語が求められているのではないだろうか。

とこんなところだろうか。
相変わらず作品自体の構造や、作品と社会状況との関連が非常に綺麗に配置されており、その切れ味の良さ、手際の良さというのは素晴らしいと思う。
ところが社会分析に関しては、あまりに問題点が見受けられる。ゼロ想の時からそうであるが、作品の中の価値観、世界観がそのまま現実の人々のそれと直結していることを前提とした議論が幾度と繰り返されるのだ。本当にそれは正しいのか?フィクションが現実のある一面を切り取ることがあるということであるのならいい。しかし、フィクションが現実社会と直結しているということを、きちんとした社会分析を踏まえずに主張することは、いささか早急に思えてしまう。「彼の手法は、宮台真司の手法からフィールドワークと社会理論を取り除いたもの」と誰かが言っていたが非常に的確である。それを繰り返していると、現実社会の実態から乖離した、宇野の批評の中だけにおけるフィクショナルな社会ができあがってしまい、現実社会を語るときにまったく役にたたない物になってしまうのではないのか。自分は社会科学の知識がないのでなんともいえないが、専門の方はどうおもっているのだろうか?
例えば母性のディストピア第一回の連載の冒頭で、彼は江藤淳の戦後日本に置ける「母性の喪失」の議論を持ち出し、戦後日本に置ける母性喪失の神話を自明な事実とする。

戦後、アメリカという力によってもたらされた戦後民主主義は、<父>を不在のものとし<母>を崩壊させた。その結果、子供たちを、成熟を喪った永遠の『十二歳の少年』に肯定した。……その新しい成熟とは表面上、ふたつの道として<戦後>の子供たちのまえに浮上した。」

しかし、ここで忘れていけないのは、江藤淳はこの<母性の喪失>という仮説を、あくまで同時代の作家たちの小説の批評を通して見出しているということである。確かに作家の直観が現実のある一面を社会科学以上に見抜く力はあるだろう。しかし、その直観はあくまで、”直観”にすぎない。あくまで、それは(科学的な)実際の社会の実態とは分けて語られなければならない。宇野には自分の語る言葉が、文学的な「仮説」であるという自覚があるのだろうか?先程の宇野の引用からは文芸批評の仮説をそのまま強引に社会科学的な事実に接続しようとしているとしか思えない。
このような粗を書いているときりがないが、この後も彼の強引な政治論、社会論は続いていく。先程の引用のすぐ後では、戦後の政治思想をAとBとに二分割し、それぞれがどのような思想であるのかを、100字程度でまとめ上げるということをする。一口に右派や左派と言っても内部では様々なブレがあるのに、それをいいわけもなく、強引に同一化させるというのは、無理があるのではないか。
この他にも、<前近代><近代><グローバリゼーション><母性>という語がはっきりとした定義付け、説明がされないまま使用されているのが気になってしまう。
例えば

長く、この国を縛り付けていた前近代性の重力下において、母とは子を第二の夫として再生産する存在だった。

と母性のディストピア第一回で語るが「母性社会の行方」(平山 満紀、紀伊國屋書店、2010)によれば、そのように母親が規定されるようになったのは明治時代という<近代>以後の話であるという。それ以前の江戸時代の<前近代>においては、子は母だけでなく、祖母や近所の女性によって育てられるものであり、母親はそれほど子供の教育にたずさわらなかったとのことだ。細かい点だが自身の使う用語を定義し、正しい使用法をしなければ、議論全体の信憑性にまで関わってくる。
無論、彼の議論の全てがダメだというわけではない。それどころか、彼の行った日本のサブカルチャーにおける母性支配の問題の提起は、誰も試みたことのないものであり、研究の余地があると思う。
しかし、その秀逸なアイディアを、杜撰な用語の定義や、引用元、根拠を明かさないままの事実の組み立てや、私的な体験を元にした現代社会考察が台無しにしてしまっている。このような論文はもし、アカデミズムの世界であれば許されることではないと思う。評論家の世界というのは、売れさえすれば根拠や論理性、実証性の欠けた文章を書いたところで許容されるのであろうか。
第八回の連載において宇野はこう述べる。

ここで重要なのはこの(ローカルな)共同体に働く)母権的な承認と、その排除の論理が作用する範囲で可能となる物語回帰という構造に自覚的であるのか、無自覚であるのかの差異だろう。

宇野氏は、自己の信ずる世界観が所詮、相対的なローカルな共同体の中でしか通用しない相対的なものであることへの自覚をせまる。そして、その自覚に立ち、 その上で他者とのコミュニケーションを試みようとする作家として、宮藤官九郎を取り上げる。

いずれの作品も、宮藤が前提としているのは汎コミュニケーション化時代における広義の政治性のようなものである。ウェルメイドな外見とは裏腹に、宮藤の諸作品には、終わらない恋愛ゲームの連鎖にせよ、カウンターカルチャーの不可能性にせよ、実はより徹底された諦観--これまでの議論に即した言葉を用いればセカイ系化を前提とした汎コミュニケーション化は不可避であるという諦観が存在する。だが、現代の不可視の政治性を読み込み(広義の)文学に緊張と強度を与えるものがあるとするのなら、それはおそらくこの諦観の果てにあるのではないだろうか。

たしかに、現代の社会は多様化、相対化、汎コミュニケーション化(他者とのコミュニケーションの内容によって、社会的な立ち位置が決定される)の傾向があり、そのことを(漠然とした状況論ではあるが)とりあえず受け入れることはできると思う。そして、自己の認識が「(ローカルな共同性に働く)母権的な承認と、その排除の論理が作用する範囲で可能となる物語回帰という構造」に依存していることへの自覚がない者への批判的な視座、これもまた自分も共有できる。
私が疑問に思うのは、「宮藤の諦観の果て」にあるもの--宇野氏はそれを「新しい政治性」と言っているのだが--の内実を彼が一切明かさない点にある。この「新しい政治性」についてはそのあとの連載では一切ふれられることがなく、読者からすれば肩すかしをくらった感がある。正直よくわからない概念だ。
宇野氏は日常生活に内在したまま汎コミュニケーションの世界に没入し、その内部で超越性にアクセスしようとする宮藤のドラマに、現代における新たな政治性の萌芽を見出そうとする。
ところが(宇野の説明を見る限りでは)宮藤のドラマの登場人物の他者への関心はあくまでローカルな日常生活の内部に限られている。たしかに彼らは自己の価値観の相対性を自覚しているだけ、無自覚な人々よりはましなのかもしれない。しかし、(宇野の説明を見る限りでは)結局のところ彼らは自己の汎コミュニケーション的な現状に諦観を覚えるだけで、自分たちの日常の外部にいる他者(=社会)への想像力を持つようには見えない。そこから新たな政治性を見出せるという宇野の説明にはどんな根拠があるのだろうか。私には彼らもまた「グローバリゼーションがもたらす不可視な環境」の中で、自己のローカルな汎コミュニケーションの世界に埋没し、権力者(宇野用語でいえば決断主義者でもいいが)の暴力の前に為す術もなくひれ伏してしまうようにしか思えない。
母性のディストピア最終回で宇野はこう連載をしめくくる。

だとすれば、私たちがこの母性のディストピアを内破するために必要なのは、敗北が運命づけられているゲーム批判ではなく、むしろ徹底してこのゲームにむしろ徹底してこのゲームに内在することである。市場の流動性がもたらすダイナミズムの中から立ち上がるものこそが、この母性のディストピアを内破できるのだ。

本当にそれで母性のディストピアを内破できるのか?どこにその根拠があるのか?「市場の流動性がもたらすダイナミズム」というのもすでに母性の支配権に収まってしまうことだってありえる。ここでの宇野の希望的観測は、自分には単なる市場原理主義の無批判な肯定にしか思えない。
こんなことを言うと元も子もないが、新たな政治性はわざわざサブカルの中に見出さなくてもいいのではないのか。素直に現代政治学を学べば現代のポストモダン化した社会に対する答えはいくらでも転がっている。なぜ今更文学と政治の回路を回復させる必要性があるのか。その理由をまず語る必要があるのではないのか。
ただ、もしかしたら、他者とのコミュニケーションをローカルな共同体から、さらに社会全体に伸ばしていくことで、公共性への意識を高めることを宇野は期待しているのかもしれない。確かに、文学には他者への想像力の喚起や、弱者に取って最悪な社会を避けるための注意を人々に促す役割は十分にある。そういう意味で、文学が政治的な公共性への参加の動機づけの役割を果たす可能性はある。宇野の言う「新たな政治性」とはそういう事を意味するのだろうか。

ここで、決断主義や母性のディストピアへの答えとなるブログの記事を見つけたので、紹介してみる。
ゼロ年代における「契約から再契約へ」の想像力」http://d.hatena.ne.jp/izumino/20080923/p1

「元々この仮説には大きな見落としがあって、まずニーチェが二世界説を批判して言うような「価値の相対化」がそもそもの間違いであること。人間は痛みを感じるのはイヤだと思うし、目の前で泣いてる女の子がいれば助けたいと思うものだ。生身の「快/不快」スイッチを持った人間が、ベターを目指し、イヤなことにはイヤだと思い、(相対化されがちな善悪に対しても)「最善」を願いつづけることに、何の間違いがあるだろう?
次に、そういう人間の生理があるのだから、王道的なメロドラマはいつでも滅びなかったということ。90年代に落ち込みはすれど、連綿と続いている。そして、その王道のドラマトゥルギー(=想像力)が、そのまま「決断主義」へのアンサーになりうることを見逃していること。
第一、「万人による万人に対する闘争」なんて古典的なレベルに問題を巻き戻しているあたり、思想を積み重ねていけばすぐに答えは出てくるものだったのだ。」

どんなに自己の価値観が相対的なものであったとしても、生理的な不快をもたらす「悪」を避け、快をもたらす「善」をもたらすことを否定することはできない。そして同じ「善」に対する感覚を共有する者どうしが連帯し合い、一つの社会の目標へ向け同意し、それに向けた政策を議論する。そして、そのことを他の人々に訴えて、選挙によって候補者を選出し、政治に介入していく。こういう考えが素直に考えて、(政治的な意味での)決断主義、母性のディストピアへの答えになるのではないだろうか。
「そういう考え方は決断主義者の動員ゲームと同じでは?」という批判はあるかもしれない。それに対する私の答えは、「政治行動においては(宇野の言う意味での)決断主義者と同じで別にいいのではないのか」といういうことである。我々の価値観には今も昔も絶対性などないし、そういう意味では我々の社会はずっと、「バトルロワイヤル状況」だったのだと思う。最近になってそのことにやっと気づいただけなのだ。社会から大きな物語が喪失したというより、社会にはもともと大きな物語など存在しなかったのである。他人に危害を加える決断主義者に対抗するには、我々も団結して、彼ら以上の権力*1を作り上げて、彼らの暴力を抑えつければいいだけである。それだけの話ではないのか。政治理論にまったく詳しくないので、拙い例え話になってしまったが、こういうアイディアというのが現代における「新しい政治性」の一つであるのだと思う。
正直、宇野の議論は自己の立場の相対性を徒に強調するだけで、現実の社会の権力による不正、非倫理的行為や多数派への不利益に対して傍観的な態度を取っているようにしか見えない。そもそも、政治学、哲学思想、文学、社会学、または日本文化研究といったこれらすべての学問の積み重ねにまったく言及せずに、社会と政治を語ろうとした時点で、不毛な議論になってしまうことは目に見えていたことではあった。
私はさんざん「母性のディストピア」批判をしてきたが、彼の議論には非常に刺激的なものがあり、全体としてのこの連載への評価はむしろ高い。「母性」という概念が「戦後」後のオタク文化を規定していたことの発見や個々の作品における母性支配の構造の分析と批判、その自閉的な世界から抜け出すための汎コミュニケーション物語の提示。どれも今までになかった試みであり、これからの議論を促すものであると思う。最近は母性の受容のされ方が変容している面もあるみたいだが*2、それでも示唆に富んだ考察ではあるだろう。
ただ彼にはいい加減、次の記事でみられるような「差異化のパラノイア」はやめてほしい。

東浩紀編『日本的想像力の未来』 その1
http://d.hatena.ne.jp/tomatotaro/20100917

(「泣きギャルゲー」について東明寺宗麟と、宇野常寛(善良な市民)の対談)
善良な市民: まあ「泣き」っていうか、「ドラマチックな展開」は必要不可欠だよな。連中が求めてるのってさ、多分「ホンモノの恋愛」なんだよ。合コンとかときメモで手に入るありふれた恋愛じゃなくてね「オンリーユーフォーエバー」って感じの「運命の大恋愛」が欲しいんだよ、そのためには悲劇的に盛り上がるのが一番だろ?
東明寺: でもよ、そういうのって古典じゃないか、恋愛ドラマの。「ロミオとジュリエット」(注8)とかさ。
善良な市民: それは認めるね。でもね、ジュリエットはロミオだから惚れた訳で、任意の名前入力次第ではオタクデブにも恋してしまう連中とは違うからね。
東明寺宗麟公式ウェブサイト

ただの「オタク弄り芸」に見えなくもない。しかしオタク文化への「オタクデブ(下層)/そうでない市民(上層)」という社会的文脈の注入は、オタク文化の持つ「社会的なものの忘却」(by宮台)という長所を決定的に損なってしまい、業界自体が縮小していく可能性すらある。例えばPLANETS.6で宇野さんは『初音ミク』(=コンテンツ)と、ファンの「アイデンティティー」(=社会的属性)と「気持ち悪さ」(=心理的評価)の三つの要素を関連化している。

宇野: 「ブラック★ロックシューター」でもなんでもいいけど、ぞっとするくらいベタな物語回帰をした自己啓発ソングになってる。初音ミクを支持している層は、「メジャーなやつはGreeeenとか湘南風とかベタなものを聴いているけど、自分たちはサブカルチャーの最先端を享受している」みたいなアイデンティティーを持ってるやつが結構いるだろうけど、歌詞をよく読んでみると、両方ともまったく同質だよ。(略)
宇野: 「俺たちの初音ミクが技術的にも表現的にも最先端だ!」って、コミュニティ単位でのナルシシズムになってるのが気持ち悪い。[p124-125]

シンポジウムで希望として語られたオタクの「社会的無関連化機能」とこの言説は正反対にある。浅田彰が『逃走論』で「広告の世界のひとたち」が陥りやすいと言った、「差異化のパラノイア」に陥ってはいないだろうか? 宮台真司による「セカイ系=社会的なものの忘却」と「バトルロワイヤル系=社会的なものの呼び出し」でいったら宇野さんは後者のバトルロワイヤル系である。 どんな文化にもナルシシズムはある。「チョマチョゴリを着ているやつらは気持ち悪い」という明らかな差別言説と、「初音ミクを好きなやつらは気持ち悪い」という言説にどのくらい距離があるんだろう?

敵や下層民を設定して(「〜が結構いるだろうけど」という創造)、あるいは彼らの害悪をことさらにわめき立ててその向こう側に「そうでない自分」を設定する差異化のパラノイア。そこから宮台のいう「進化の袋小路のような細分化ないし自己差異化に向かうという可能性」[p89]に縮んでいくことが危惧される。
オタク文化のもつ無関連化機能を売りにした海外への輸出」と、それを捨てて「オタク文化内でバトルロワイヤル的に差異化するローカルな優越感ゲーム」、どちらにクール・ジャパンの可能性はあるのか、考えねばならないだろう。

ある「コンテンツ」とそれに対する「受容のされ方」や「受容する人の社会的帰属」を一意的に決めることはできないはずだ。なぜここまで「差異化のパラノイア」にこだわるのだろうか。
彼が批判するようなベタなオタクは90年代末〜00年代初頭頃にはいたのかもしれないが、果たして10年代のニコニコ動画においてもそれがあてはまるのだろうか。自分の実感だとむしろニコニコ界隈*3においては、社会的所属も性別も年齢もバラバラな人たちが、個人ごとにことなる受容の仕方をしているのではないだろうか。宇野の言うような「自己の問題点を痛た気持ち良い反省で正当化したつもりでいる、セカイ系オタク」というのを(90年代のことは知らないが、少なくとも最近では)まったく周囲でみたことがない。そのかわりによく見かけるのは、「自分の趣味に恥ずかしさを全く感じず、作品内の価値観と現実の価値観の区別をわきまえた上でで「あくまで趣味の一つだと」割りきって作品を楽しみ、セカイ系・ニコニコ系・日常系、さらには他のサブカルなど様々なジャンルを横断するオタク」たちだ。*4彼らには女性も何人かいて、セカイ系に内在するというレイプファンタジー的な想像力とも無縁にみえる。*5こういう現状を見ていると、あまり宇野の批判するオタク像というものにリアリティを感じることができない。*6
ただ「差異化のパラノイア」も強引な議論の組み立ても、評論家として生き残るためには必要なのかもしれない。自分の預かりしれぬところだが。
(雑記) 批評家は終わコン?
http://d.hatena.ne.jp/tomatotaro/20101011/1286791324

「批評家って必要か?」については、1.「扱っている対象の重要性は、批評本/学術書の部数(市場性)では測れない」「売れなくても文学は高級で偉い」という非市場的・アカデミズム的立場と、2.「いいや、そのジャンルの人気=アクチュアルな流行性が対象としての価値を決めるんだ」ないし「その批評本/学術書が売れたほど対象はアクチュアルかつ重要なものだという証明になるんだ」という市場的・非アカデミズム的立場の二つがあった。
2.の立場で見ると、批評家が「おわコン」なのは明らかだろう(1万2000部だから)。いや、1万部業界の内部では圧倒的チャンピオンかもしれない。けど総需要から見ると終わコンであるし、余裕がないから醜い差異化ゲーム、世代間闘争が必然的に起こる。

1万部業界だから、こういう醜い世代間闘争が起こる。

淡々と分析するふりをやめて、私見を述べると僕は今の多様性を肯定したい。”ノスタルジィ中年ちょうちん記事”ライターも尖ったアンチ中年批評家もやられやくもネット感想群も、一体、「どれか一つだけ必要で他は排除せよ」という読者がいるのか? それは「仕事くれ」系ライターの自己保存本能でしかない。1万部業界の内外にある多様性を遊ぶこと、「1万部のセカイから出る」ことから始めよう。

*1:政党による政策運営など

*2:http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20100414/p1 http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20100408/p1

*3:あるいは最近のオタク業界全般も入るかもしれない

*4:そもそもこういう趣味嗜好の人たちを”オタク”と呼べるのか?すでにオタクというくくり自体が無効化している気もしてしまう。

*5:高坂桐乃のようなタイプ

*6:もちろんこれもあくまで自分の”実感”でしかないので、社会学者らのフィールドワークを待たないことに断定的なことはいえない。自分が言いたいのは、「自分の「実感」というのは、あくまで物事の一面でしかないことを自覚し、実感主義を振り回すことをやめるべきだ」ということだ。

普遍的な「生の指針」の確立に向けて

進化倫理学入門 (光文社新書)

進化倫理学入門 (光文社新書)

本書は現代日本におけるモラルの低下を取り上げるところから始まる。確かに現代日本では本書であげられている社会的事件以外の身近な個人の行為においても、道徳心の変化を意識させられるようになっている。最近耳にするようになった「モンスターペアレンツ」や、電車の中での若者の奔放な振る舞いははその代表例と言っていいだろう。
こうした規範意識の変化の中で普遍的な道徳を主張することはできないのだろうか?著者はその疑問に対し「科学」をもって答えようとする。確かに現代において科学ほど、万人に対して説得力を持ちうる存在はないであろう。本書は自然科学と人文科学の壁を打ち砕き、科学的事実から人間の遺伝的な本能を考察することで、そこから普遍的な道徳を演繹しようとする。
著者は様々な道徳の基準になっているものは「利害損得」であると断言する。著者によると人間は進化によって地球上にうまれた生物である以上、自分の遺伝子を次世代に残すためにプラスになる性質がより多く受け継がれているという。それらの性質をあげると次のようになる。「自らの生存を最優先する。」「繁殖行為を積極的に行う」「以上2つの行為を有利に運ぶための資源獲得を行う」。これらの行為を積極的に行うように人間の本能は設計されているのだという。すなわち、利己的な行為には「快」の感情が伴い、その行為を進んで行なおうとする。逆に非−利己的な行為には「不快」の感情が伴い、その行為を避けるようになるというのだ。
ところで、「家族の手助けをする」「打算なしに困った人を助ける」といった行為は、批判なしに利他的な行為であると、一見思えそうである。しかし、本書によると、これらの行為は人間の本能に根ざす、自己の子孫が生き残るための利己的なものであるといのだ。
確かによく考えてみると我々が家族を助けようとするとき、先にこの命題を守ろうとして助けているのではない。何よりも「家族が愛しい」という愛情が先にあって、そこから家族を助けようとしている。人助けの場合も同様に、「人を助けると充実感が広がる」という感覚が念頭にあって、そのために人助けを殆どの人がおこなっている。このような経験を踏まえると、道徳の根底に利己的な本能があるという説にも、説得力が生まれてくる。
道徳とは「利益獲得の方法」であり、「善き行為」とは長期的に見て自己の利益になる行為である。だから、「善き行為」は「すべき」であるという。また、そうした「善き行為」はされる側にも利益的であることから、社会的な規範としても成立するというのだ。
このようにして「その人にとって〜〜は利益である」という事実から、「あなたの利益になるから〜〜すべき」という形を導きだすことで、道徳が主張される。非常に明快な論旨であり、科学による道徳の基礎付けに、ある程度成功しているといえる。
本書の議論は利己主義のみを道徳の基準においたものであり、道徳の客観説を採用する人からすれば受け入れられないかもしれない。しかし後書きで作者が記すように、我々の遺伝的本能に基づく欲求と向い合うこと自体は必要なことであると思う。我々が「ヒト」というサル目ヒト科の生物に属する以上、その遺伝的な本能に大きく影響されているのは紛れもない事実である。そうした本能をそのまま正当化できるかどうかはともかくとして、道徳の起源に本能上の欲求があることは少なくとも認められるのではないだろうか。そして、その本能が人類に普遍的に備わっているからこそ、それに由来する道徳観には、普遍的に認められうる可能性を有しているように思えるのである。進化倫理学が人間の道徳の形成由来をある程度解明したことで、全人類において共有可能な倫理の基盤の形成が可能になったのかしれない。
ただ、限られた分量のためか、本書を読んでいて説明不足に感じられる点もあった。著者は非−利己的行為はあくまで個別の事例として、議論の対処から外している。すると本書では「自分を誰も知っていない異国の地で人助けをする」行為や、「自己の命を犠牲にして大勢の人の生命を救う」行為を進化倫理学としては正当化できなくなってしまう。果たして、これで良いのだろうか?
自分の考えとしては、遺伝的な本能だけでなく、個人の経験や価値観に基づく非−遺伝的な快をもたらす行為をもっと重視しても良いのではないだろうかと思う。そのように、もっと幅の広い利己主義があるとすれば、興味深いところである。
また複数の人間において利害が衝突する事例を紹介して欲しかった。現実の社会では各人が最大限利己的に振舞うことで、利害が対立する自体が多く発生する。その際に進化倫理学はどのように対処するのだろうか。気になって仕方がない。
ともかく、多少の疑問点はあるが本書が入門書であることを鑑みれば大きな瑕疵ではない。今後、進化倫理学についての書籍を読んで理解を深めれば良いだけである。幸いにも巻末に多くの関連書が記載されてあり、非常に参考になる。本書を契機として、まだ自分が見知らぬ倫理学の世界を覗ければと思う。

装いを新たに

周囲の環境が変わったので、ブログを一新してみました。過去の記事については、今の自分の視点から見て訂正すべき箇所が多く削除することにしました。以前私的な自分語りという要素が以前は強かったのですが、今回は出来る限り学問的に洗練されたブログにしていきたいと思います。