普遍的な「生の指針」の確立に向けて

進化倫理学入門 (光文社新書)

進化倫理学入門 (光文社新書)

本書は現代日本におけるモラルの低下を取り上げるところから始まる。確かに現代日本では本書であげられている社会的事件以外の身近な個人の行為においても、道徳心の変化を意識させられるようになっている。最近耳にするようになった「モンスターペアレンツ」や、電車の中での若者の奔放な振る舞いははその代表例と言っていいだろう。
こうした規範意識の変化の中で普遍的な道徳を主張することはできないのだろうか?著者はその疑問に対し「科学」をもって答えようとする。確かに現代において科学ほど、万人に対して説得力を持ちうる存在はないであろう。本書は自然科学と人文科学の壁を打ち砕き、科学的事実から人間の遺伝的な本能を考察することで、そこから普遍的な道徳を演繹しようとする。
著者は様々な道徳の基準になっているものは「利害損得」であると断言する。著者によると人間は進化によって地球上にうまれた生物である以上、自分の遺伝子を次世代に残すためにプラスになる性質がより多く受け継がれているという。それらの性質をあげると次のようになる。「自らの生存を最優先する。」「繁殖行為を積極的に行う」「以上2つの行為を有利に運ぶための資源獲得を行う」。これらの行為を積極的に行うように人間の本能は設計されているのだという。すなわち、利己的な行為には「快」の感情が伴い、その行為を進んで行なおうとする。逆に非−利己的な行為には「不快」の感情が伴い、その行為を避けるようになるというのだ。
ところで、「家族の手助けをする」「打算なしに困った人を助ける」といった行為は、批判なしに利他的な行為であると、一見思えそうである。しかし、本書によると、これらの行為は人間の本能に根ざす、自己の子孫が生き残るための利己的なものであるといのだ。
確かによく考えてみると我々が家族を助けようとするとき、先にこの命題を守ろうとして助けているのではない。何よりも「家族が愛しい」という愛情が先にあって、そこから家族を助けようとしている。人助けの場合も同様に、「人を助けると充実感が広がる」という感覚が念頭にあって、そのために人助けを殆どの人がおこなっている。このような経験を踏まえると、道徳の根底に利己的な本能があるという説にも、説得力が生まれてくる。
道徳とは「利益獲得の方法」であり、「善き行為」とは長期的に見て自己の利益になる行為である。だから、「善き行為」は「すべき」であるという。また、そうした「善き行為」はされる側にも利益的であることから、社会的な規範としても成立するというのだ。
このようにして「その人にとって〜〜は利益である」という事実から、「あなたの利益になるから〜〜すべき」という形を導きだすことで、道徳が主張される。非常に明快な論旨であり、科学による道徳の基礎付けに、ある程度成功しているといえる。
本書の議論は利己主義のみを道徳の基準においたものであり、道徳の客観説を採用する人からすれば受け入れられないかもしれない。しかし後書きで作者が記すように、我々の遺伝的本能に基づく欲求と向い合うこと自体は必要なことであると思う。我々が「ヒト」というサル目ヒト科の生物に属する以上、その遺伝的な本能に大きく影響されているのは紛れもない事実である。そうした本能をそのまま正当化できるかどうかはともかくとして、道徳の起源に本能上の欲求があることは少なくとも認められるのではないだろうか。そして、その本能が人類に普遍的に備わっているからこそ、それに由来する道徳観には、普遍的に認められうる可能性を有しているように思えるのである。進化倫理学が人間の道徳の形成由来をある程度解明したことで、全人類において共有可能な倫理の基盤の形成が可能になったのかしれない。
ただ、限られた分量のためか、本書を読んでいて説明不足に感じられる点もあった。著者は非−利己的行為はあくまで個別の事例として、議論の対処から外している。すると本書では「自分を誰も知っていない異国の地で人助けをする」行為や、「自己の命を犠牲にして大勢の人の生命を救う」行為を進化倫理学としては正当化できなくなってしまう。果たして、これで良いのだろうか?
自分の考えとしては、遺伝的な本能だけでなく、個人の経験や価値観に基づく非−遺伝的な快をもたらす行為をもっと重視しても良いのではないだろうかと思う。そのように、もっと幅の広い利己主義があるとすれば、興味深いところである。
また複数の人間において利害が衝突する事例を紹介して欲しかった。現実の社会では各人が最大限利己的に振舞うことで、利害が対立する自体が多く発生する。その際に進化倫理学はどのように対処するのだろうか。気になって仕方がない。
ともかく、多少の疑問点はあるが本書が入門書であることを鑑みれば大きな瑕疵ではない。今後、進化倫理学についての書籍を読んで理解を深めれば良いだけである。幸いにも巻末に多くの関連書が記載されてあり、非常に参考になる。本書を契機として、まだ自分が見知らぬ倫理学の世界を覗ければと思う。