感想『Girls TALK #3』

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知り合いの漫画を読んだので、感想を残しておきます。
確かに「感情の相互交流不可能性」のみを物語の主題にしてしまえば、それ以上先の展開は書くことはできないでしょう。話はそこでおしまいです。
そもそも人間(特に男女間)がお互いのことを完全に理解出来ないというのは、源氏物語にしろジェーン・オースティンにしろ夏目漱石にしろ、古今東西の恋愛小説において散々言及されてきた事柄です。そのことだけを物語の主題として、殊更に取り上げる必然性が本当にあったのでしょうか。人間とは完全に分かり合えないものだという前提を踏まえた上で、別の「何か」を作品のモチーフに加えなければ、物語を続けていくことは難しいと思います。
作者自身は「感情の相互交流不可能性」というテーマから脱却しようとしていたようですが、どうも上手くいかなかったようです。*1この時期の作者さんは「ちゅっちゅまんが」の呪縛にそれだけ絡め取られていたと言えるでしょう。
次回作がどのような形になっているのかはわかりませんが、以前の作品の枠組みを超えた、新たなテーマの作品を作り出すことを期待しています。
追記2014/10/14
昔の文章を読み返すと言い足りない点があったのでもうちょっと書き加えておきます。
この一連の作品群を見ていると、主人公の涼子は「感情の相互交流不可能性」によって破綻したというよりも、単に他人との自己中心的で未熟な付き合い方によって破綻しただけにしか思えません。
人間と人間との間における「感情の相互交流不可能性」を語りたいなら、感情の相互交流の限界に行き当たるほどのコミュニケーション能力をもった人物を出すべきでしょう。
十分にお互いがお互いのことを察し、お互いのために行動できた上で、お互いのことが理解できないのならまだ「感情の相互交流不可能性」をテーマにした意味が理解できます。
これでは人間と人間のコミュニケーションの限界を描くという以前に、単に高慢で幼稚な少女が自分の未熟な精神性のために自滅する物語にしか見えません。
「感情の相互交流不可能性」をテーマにするのであれば、少なくともその不可能性の限界にまで到達した対人関係能力をもった人物*2を出すべきでしょう。
そういう点から言うと前作、前々作の時点ですでに表現としては失敗していたように見受けられてなりません。テーマは立派なのですが、実際に描かれている物語の構造や登場人物がそのレベルまで追い付いていないのではないでしょうか。
コミュニケーション能力が未熟な少女を中心人物にすえるのであれば、むしろその未熟さにテーマを絞るべきだったと思います。

*1:私見ですが、「涼子の自己中心的なコミュニケーションからの脱却」を描くことが、作品内の論理としては自然な流れだったように思えます。

*2:要するに精神的に大人の人物