一足先に宇野常寛の「母性のディストピア」を読んでみる

新潮 2008年 11月号 [雑誌]

新潮 2008年 11月号 [雑誌]

宇野常寛の作品を「ゼロ想」以外読んでいなかったので、その後の氏の評論を一通り読んでみた。一通り要約してみると

敗戦、アメリカの支配を受けることによって、日本人はそれまでの前近代的な母性を通じた<成熟>への回路を失った。そこで、戦後ではアメリカという存在と(肯定的であれ、否定的であれ)対峙することによって、成熟するという新しい成熟への道が浮かび上がった。しかし、冷戦構造の崩壊によって、アメリカという存在の力が弱くなり、日本人は再び成熟への回路を見失うことになった。そのような状況の下で、前近代的な母性に身をゆだね、他者を排除し、成熟を拒否する物語がサブカルチャーを中心に再び現れることになった。これでは、有限な存在である人間にとって不可避である「成熟=老い」の問題に立ち向かうことができない。だから、母性の支配から脱却して、他者と向かい合う、新たな成熟を指し示す物語が求められているのではないだろうか。

とこんなところだろうか。
相変わらず作品自体の構造や、作品と社会状況との関連が非常に綺麗に配置されており、その切れ味の良さ、手際の良さというのは素晴らしいと思う。
ところが社会分析に関しては、あまりに問題点が見受けられる。ゼロ想の時からそうであるが、作品の中の価値観、世界観がそのまま現実の人々のそれと直結していることを前提とした議論が幾度と繰り返されるのだ。本当にそれは正しいのか?フィクションが現実のある一面を切り取ることがあるということであるのならいい。しかし、フィクションが現実社会と直結しているということを、きちんとした社会分析を踏まえずに主張することは、いささか早急に思えてしまう。「彼の手法は、宮台真司の手法からフィールドワークと社会理論を取り除いたもの」と誰かが言っていたが非常に的確である。それを繰り返していると、現実社会の実態から乖離した、宇野の批評の中だけにおけるフィクショナルな社会ができあがってしまい、現実社会を語るときにまったく役にたたない物になってしまうのではないのか。自分は社会科学の知識がないのでなんともいえないが、専門の方はどうおもっているのだろうか?
例えば母性のディストピア第一回の連載の冒頭で、彼は江藤淳の戦後日本に置ける「母性の喪失」の議論を持ち出し、戦後日本に置ける母性喪失の神話を自明な事実とする。

戦後、アメリカという力によってもたらされた戦後民主主義は、<父>を不在のものとし<母>を崩壊させた。その結果、子供たちを、成熟を喪った永遠の『十二歳の少年』に肯定した。……その新しい成熟とは表面上、ふたつの道として<戦後>の子供たちのまえに浮上した。」

しかし、ここで忘れていけないのは、江藤淳はこの<母性の喪失>という仮説を、あくまで同時代の作家たちの小説の批評を通して見出しているということである。確かに作家の直観が現実のある一面を社会科学以上に見抜く力はあるだろう。しかし、その直観はあくまで、”直観”にすぎない。あくまで、それは(科学的な)実際の社会の実態とは分けて語られなければならない。宇野には自分の語る言葉が、文学的な「仮説」であるという自覚があるのだろうか?先程の宇野の引用からは文芸批評の仮説をそのまま強引に社会科学的な事実に接続しようとしているとしか思えない。
このような粗を書いているときりがないが、この後も彼の強引な政治論、社会論は続いていく。先程の引用のすぐ後では、戦後の政治思想をAとBとに二分割し、それぞれがどのような思想であるのかを、100字程度でまとめ上げるということをする。一口に右派や左派と言っても内部では様々なブレがあるのに、それをいいわけもなく、強引に同一化させるというのは、無理があるのではないか。
この他にも、<前近代><近代><グローバリゼーション><母性>という語がはっきりとした定義付け、説明がされないまま使用されているのが気になってしまう。
例えば

長く、この国を縛り付けていた前近代性の重力下において、母とは子を第二の夫として再生産する存在だった。

と母性のディストピア第一回で語るが「母性社会の行方」(平山 満紀、紀伊國屋書店、2010)によれば、そのように母親が規定されるようになったのは明治時代という<近代>以後の話であるという。それ以前の江戸時代の<前近代>においては、子は母だけでなく、祖母や近所の女性によって育てられるものであり、母親はそれほど子供の教育にたずさわらなかったとのことだ。細かい点だが自身の使う用語を定義し、正しい使用法をしなければ、議論全体の信憑性にまで関わってくる。
無論、彼の議論の全てがダメだというわけではない。それどころか、彼の行った日本のサブカルチャーにおける母性支配の問題の提起は、誰も試みたことのないものであり、研究の余地があると思う。
しかし、その秀逸なアイディアを、杜撰な用語の定義や、引用元、根拠を明かさないままの事実の組み立てや、私的な体験を元にした現代社会考察が台無しにしてしまっている。このような論文はもし、アカデミズムの世界であれば許されることではないと思う。評論家の世界というのは、売れさえすれば根拠や論理性、実証性の欠けた文章を書いたところで許容されるのであろうか。
第八回の連載において宇野はこう述べる。

ここで重要なのはこの(ローカルな)共同体に働く)母権的な承認と、その排除の論理が作用する範囲で可能となる物語回帰という構造に自覚的であるのか、無自覚であるのかの差異だろう。

宇野氏は、自己の信ずる世界観が所詮、相対的なローカルな共同体の中でしか通用しない相対的なものであることへの自覚をせまる。そして、その自覚に立ち、 その上で他者とのコミュニケーションを試みようとする作家として、宮藤官九郎を取り上げる。

いずれの作品も、宮藤が前提としているのは汎コミュニケーション化時代における広義の政治性のようなものである。ウェルメイドな外見とは裏腹に、宮藤の諸作品には、終わらない恋愛ゲームの連鎖にせよ、カウンターカルチャーの不可能性にせよ、実はより徹底された諦観--これまでの議論に即した言葉を用いればセカイ系化を前提とした汎コミュニケーション化は不可避であるという諦観が存在する。だが、現代の不可視の政治性を読み込み(広義の)文学に緊張と強度を与えるものがあるとするのなら、それはおそらくこの諦観の果てにあるのではないだろうか。

たしかに、現代の社会は多様化、相対化、汎コミュニケーション化(他者とのコミュニケーションの内容によって、社会的な立ち位置が決定される)の傾向があり、そのことを(漠然とした状況論ではあるが)とりあえず受け入れることはできると思う。そして、自己の認識が「(ローカルな共同性に働く)母権的な承認と、その排除の論理が作用する範囲で可能となる物語回帰という構造」に依存していることへの自覚がない者への批判的な視座、これもまた自分も共有できる。
私が疑問に思うのは、「宮藤の諦観の果て」にあるもの--宇野氏はそれを「新しい政治性」と言っているのだが--の内実を彼が一切明かさない点にある。この「新しい政治性」についてはそのあとの連載では一切ふれられることがなく、読者からすれば肩すかしをくらった感がある。正直よくわからない概念だ。
宇野氏は日常生活に内在したまま汎コミュニケーションの世界に没入し、その内部で超越性にアクセスしようとする宮藤のドラマに、現代における新たな政治性の萌芽を見出そうとする。
ところが(宇野の説明を見る限りでは)宮藤のドラマの登場人物の他者への関心はあくまでローカルな日常生活の内部に限られている。たしかに彼らは自己の価値観の相対性を自覚しているだけ、無自覚な人々よりはましなのかもしれない。しかし、(宇野の説明を見る限りでは)結局のところ彼らは自己の汎コミュニケーション的な現状に諦観を覚えるだけで、自分たちの日常の外部にいる他者(=社会)への想像力を持つようには見えない。そこから新たな政治性を見出せるという宇野の説明にはどんな根拠があるのだろうか。私には彼らもまた「グローバリゼーションがもたらす不可視な環境」の中で、自己のローカルな汎コミュニケーションの世界に埋没し、権力者(宇野用語でいえば決断主義者でもいいが)の暴力の前に為す術もなくひれ伏してしまうようにしか思えない。
母性のディストピア最終回で宇野はこう連載をしめくくる。

だとすれば、私たちがこの母性のディストピアを内破するために必要なのは、敗北が運命づけられているゲーム批判ではなく、むしろ徹底してこのゲームにむしろ徹底してこのゲームに内在することである。市場の流動性がもたらすダイナミズムの中から立ち上がるものこそが、この母性のディストピアを内破できるのだ。

本当にそれで母性のディストピアを内破できるのか?どこにその根拠があるのか?「市場の流動性がもたらすダイナミズム」というのもすでに母性の支配権に収まってしまうことだってありえる。ここでの宇野の希望的観測は、自分には単なる市場原理主義の無批判な肯定にしか思えない。
こんなことを言うと元も子もないが、新たな政治性はわざわざサブカルの中に見出さなくてもいいのではないのか。素直に現代政治学を学べば現代のポストモダン化した社会に対する答えはいくらでも転がっている。なぜ今更文学と政治の回路を回復させる必要性があるのか。その理由をまず語る必要があるのではないのか。
ただ、もしかしたら、他者とのコミュニケーションをローカルな共同体から、さらに社会全体に伸ばしていくことで、公共性への意識を高めることを宇野は期待しているのかもしれない。確かに、文学には他者への想像力の喚起や、弱者に取って最悪な社会を避けるための注意を人々に促す役割は十分にある。そういう意味で、文学が政治的な公共性への参加の動機づけの役割を果たす可能性はある。宇野の言う「新たな政治性」とはそういう事を意味するのだろうか。

ここで、決断主義や母性のディストピアへの答えとなるブログの記事を見つけたので、紹介してみる。
ゼロ年代における「契約から再契約へ」の想像力」http://d.hatena.ne.jp/izumino/20080923/p1

「元々この仮説には大きな見落としがあって、まずニーチェが二世界説を批判して言うような「価値の相対化」がそもそもの間違いであること。人間は痛みを感じるのはイヤだと思うし、目の前で泣いてる女の子がいれば助けたいと思うものだ。生身の「快/不快」スイッチを持った人間が、ベターを目指し、イヤなことにはイヤだと思い、(相対化されがちな善悪に対しても)「最善」を願いつづけることに、何の間違いがあるだろう?
次に、そういう人間の生理があるのだから、王道的なメロドラマはいつでも滅びなかったということ。90年代に落ち込みはすれど、連綿と続いている。そして、その王道のドラマトゥルギー(=想像力)が、そのまま「決断主義」へのアンサーになりうることを見逃していること。
第一、「万人による万人に対する闘争」なんて古典的なレベルに問題を巻き戻しているあたり、思想を積み重ねていけばすぐに答えは出てくるものだったのだ。」

どんなに自己の価値観が相対的なものであったとしても、生理的な不快をもたらす「悪」を避け、快をもたらす「善」をもたらすことを否定することはできない。そして同じ「善」に対する感覚を共有する者どうしが連帯し合い、一つの社会の目標へ向け同意し、それに向けた政策を議論する。そして、そのことを他の人々に訴えて、選挙によって候補者を選出し、政治に介入していく。こういう考えが素直に考えて、(政治的な意味での)決断主義、母性のディストピアへの答えになるのではないだろうか。
「そういう考え方は決断主義者の動員ゲームと同じでは?」という批判はあるかもしれない。それに対する私の答えは、「政治行動においては(宇野の言う意味での)決断主義者と同じで別にいいのではないのか」といういうことである。我々の価値観には今も昔も絶対性などないし、そういう意味では我々の社会はずっと、「バトルロワイヤル状況」だったのだと思う。最近になってそのことにやっと気づいただけなのだ。社会から大きな物語が喪失したというより、社会にはもともと大きな物語など存在しなかったのである。他人に危害を加える決断主義者に対抗するには、我々も団結して、彼ら以上の権力*1を作り上げて、彼らの暴力を抑えつければいいだけである。それだけの話ではないのか。政治理論にまったく詳しくないので、拙い例え話になってしまったが、こういうアイディアというのが現代における「新しい政治性」の一つであるのだと思う。
正直、宇野の議論は自己の立場の相対性を徒に強調するだけで、現実の社会の権力による不正、非倫理的行為や多数派への不利益に対して傍観的な態度を取っているようにしか見えない。そもそも、政治学、哲学思想、文学、社会学、または日本文化研究といったこれらすべての学問の積み重ねにまったく言及せずに、社会と政治を語ろうとした時点で、不毛な議論になってしまうことは目に見えていたことではあった。
私はさんざん「母性のディストピア」批判をしてきたが、彼の議論には非常に刺激的なものがあり、全体としてのこの連載への評価はむしろ高い。「母性」という概念が「戦後」後のオタク文化を規定していたことの発見や個々の作品における母性支配の構造の分析と批判、その自閉的な世界から抜け出すための汎コミュニケーション物語の提示。どれも今までになかった試みであり、これからの議論を促すものであると思う。最近は母性の受容のされ方が変容している面もあるみたいだが*2、それでも示唆に富んだ考察ではあるだろう。
ただ彼にはいい加減、次の記事でみられるような「差異化のパラノイア」はやめてほしい。

東浩紀編『日本的想像力の未来』 その1
http://d.hatena.ne.jp/tomatotaro/20100917

(「泣きギャルゲー」について東明寺宗麟と、宇野常寛(善良な市民)の対談)
善良な市民: まあ「泣き」っていうか、「ドラマチックな展開」は必要不可欠だよな。連中が求めてるのってさ、多分「ホンモノの恋愛」なんだよ。合コンとかときメモで手に入るありふれた恋愛じゃなくてね「オンリーユーフォーエバー」って感じの「運命の大恋愛」が欲しいんだよ、そのためには悲劇的に盛り上がるのが一番だろ?
東明寺: でもよ、そういうのって古典じゃないか、恋愛ドラマの。「ロミオとジュリエット」(注8)とかさ。
善良な市民: それは認めるね。でもね、ジュリエットはロミオだから惚れた訳で、任意の名前入力次第ではオタクデブにも恋してしまう連中とは違うからね。
東明寺宗麟公式ウェブサイト

ただの「オタク弄り芸」に見えなくもない。しかしオタク文化への「オタクデブ(下層)/そうでない市民(上層)」という社会的文脈の注入は、オタク文化の持つ「社会的なものの忘却」(by宮台)という長所を決定的に損なってしまい、業界自体が縮小していく可能性すらある。例えばPLANETS.6で宇野さんは『初音ミク』(=コンテンツ)と、ファンの「アイデンティティー」(=社会的属性)と「気持ち悪さ」(=心理的評価)の三つの要素を関連化している。

宇野: 「ブラック★ロックシューター」でもなんでもいいけど、ぞっとするくらいベタな物語回帰をした自己啓発ソングになってる。初音ミクを支持している層は、「メジャーなやつはGreeeenとか湘南風とかベタなものを聴いているけど、自分たちはサブカルチャーの最先端を享受している」みたいなアイデンティティーを持ってるやつが結構いるだろうけど、歌詞をよく読んでみると、両方ともまったく同質だよ。(略)
宇野: 「俺たちの初音ミクが技術的にも表現的にも最先端だ!」って、コミュニティ単位でのナルシシズムになってるのが気持ち悪い。[p124-125]

シンポジウムで希望として語られたオタクの「社会的無関連化機能」とこの言説は正反対にある。浅田彰が『逃走論』で「広告の世界のひとたち」が陥りやすいと言った、「差異化のパラノイア」に陥ってはいないだろうか? 宮台真司による「セカイ系=社会的なものの忘却」と「バトルロワイヤル系=社会的なものの呼び出し」でいったら宇野さんは後者のバトルロワイヤル系である。 どんな文化にもナルシシズムはある。「チョマチョゴリを着ているやつらは気持ち悪い」という明らかな差別言説と、「初音ミクを好きなやつらは気持ち悪い」という言説にどのくらい距離があるんだろう?

敵や下層民を設定して(「〜が結構いるだろうけど」という創造)、あるいは彼らの害悪をことさらにわめき立ててその向こう側に「そうでない自分」を設定する差異化のパラノイア。そこから宮台のいう「進化の袋小路のような細分化ないし自己差異化に向かうという可能性」[p89]に縮んでいくことが危惧される。
オタク文化のもつ無関連化機能を売りにした海外への輸出」と、それを捨てて「オタク文化内でバトルロワイヤル的に差異化するローカルな優越感ゲーム」、どちらにクール・ジャパンの可能性はあるのか、考えねばならないだろう。

ある「コンテンツ」とそれに対する「受容のされ方」や「受容する人の社会的帰属」を一意的に決めることはできないはずだ。なぜここまで「差異化のパラノイア」にこだわるのだろうか。
彼が批判するようなベタなオタクは90年代末〜00年代初頭頃にはいたのかもしれないが、果たして10年代のニコニコ動画においてもそれがあてはまるのだろうか。自分の実感だとむしろニコニコ界隈*3においては、社会的所属も性別も年齢もバラバラな人たちが、個人ごとにことなる受容の仕方をしているのではないだろうか。宇野の言うような「自己の問題点を痛た気持ち良い反省で正当化したつもりでいる、セカイ系オタク」というのを(90年代のことは知らないが、少なくとも最近では)まったく周囲でみたことがない。そのかわりによく見かけるのは、「自分の趣味に恥ずかしさを全く感じず、作品内の価値観と現実の価値観の区別をわきまえた上でで「あくまで趣味の一つだと」割りきって作品を楽しみ、セカイ系・ニコニコ系・日常系、さらには他のサブカルなど様々なジャンルを横断するオタク」たちだ。*4彼らには女性も何人かいて、セカイ系に内在するというレイプファンタジー的な想像力とも無縁にみえる。*5こういう現状を見ていると、あまり宇野の批判するオタク像というものにリアリティを感じることができない。*6
ただ「差異化のパラノイア」も強引な議論の組み立ても、評論家として生き残るためには必要なのかもしれない。自分の預かりしれぬところだが。
(雑記) 批評家は終わコン?
http://d.hatena.ne.jp/tomatotaro/20101011/1286791324

「批評家って必要か?」については、1.「扱っている対象の重要性は、批評本/学術書の部数(市場性)では測れない」「売れなくても文学は高級で偉い」という非市場的・アカデミズム的立場と、2.「いいや、そのジャンルの人気=アクチュアルな流行性が対象としての価値を決めるんだ」ないし「その批評本/学術書が売れたほど対象はアクチュアルかつ重要なものだという証明になるんだ」という市場的・非アカデミズム的立場の二つがあった。
2.の立場で見ると、批評家が「おわコン」なのは明らかだろう(1万2000部だから)。いや、1万部業界の内部では圧倒的チャンピオンかもしれない。けど総需要から見ると終わコンであるし、余裕がないから醜い差異化ゲーム、世代間闘争が必然的に起こる。

1万部業界だから、こういう醜い世代間闘争が起こる。

淡々と分析するふりをやめて、私見を述べると僕は今の多様性を肯定したい。”ノスタルジィ中年ちょうちん記事”ライターも尖ったアンチ中年批評家もやられやくもネット感想群も、一体、「どれか一つだけ必要で他は排除せよ」という読者がいるのか? それは「仕事くれ」系ライターの自己保存本能でしかない。1万部業界の内外にある多様性を遊ぶこと、「1万部のセカイから出る」ことから始めよう。

*1:政党による政策運営など

*2:http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20100414/p1 http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20100408/p1

*3:あるいは最近のオタク業界全般も入るかもしれない

*4:そもそもこういう趣味嗜好の人たちを”オタク”と呼べるのか?すでにオタクというくくり自体が無効化している気もしてしまう。

*5:高坂桐乃のようなタイプ

*6:もちろんこれもあくまで自分の”実感”でしかないので、社会学者らのフィールドワークを待たないことに断定的なことはいえない。自分が言いたいのは、「自分の「実感」というのは、あくまで物事の一面でしかないことを自覚し、実感主義を振り回すことをやめるべきだ」ということだ。